テレクラの女の子の小さなおっぱいがかわいすぎた

テレクラで出会った女の子と即ハメをしてきたばかりです。
巨乳が好きではないといったらもちろん嘘になりますが、巨乳という価値基準だけを重視し、巨乳のみを褒め称えることによって、小さめのおっぱいのかわいらしさがないがしろにされるのはいささか考えものです。
テレクラを通して出会うことになった小さめのおっぱいの女の子とのセックスを通して、私は、あらためて壁と卵であれば、萎縮して気弱になりがちな小さめのおっぱい、卵の側につねに立ちたいものだ、という思いを新たにしました。
小さなおっぱいに、おっぱいとしての触り心地がないか、というと、決してそんなことはありません。
どのような小さなふくらみであれ、私の手のひらがおっぱいに触れるとき、乳首を中心としたわずかなふくらみはおっぱいの柔らかさを指先に伝えてくれるのであって、私は、この小さく弱いもののためならば、どんなことでもしてあげたいとさえ思うのです。
注意深く耳を傾けていなければ思わず聞き逃してしまうような小さな音に耳をすますこと、という私の基本姿勢や活動は、おそらくおっぱいに対しても延長して行われている営みなのかもしれません。
大きな声によってかき消されてしまいがちな小さな声たちの響きは、大きな声の粗雑さからは受け取ることができないような大きな驚きに満ちたものであることが多いのですが、それはおっぱいに限ってもほぼ同じことが言えるのではないかと思います。
小さなおっぱいの女の子と即ハメをさせていただくという体験は、おっぱい全体に対する感性の網目をより細かく丁寧にしていくために私には欠かせない必須の体験であるといってよいでしょう。
小さなおっぱいを包むブラジャー、わずかなふくらみのうえで屹立する乳首の印象、横たわったときに女の子の身体のうえで広がってほとんど平面化するのではないか、と思われるような乳房の“ひしゃげ”の光景など、小さなおっぱいが私に与えてくれるおっぱいの情報は限りなく多い。
挿入中、性器があわだつようなグチュグチュという音に恥ずかしさを感じて、みずからの性器の音に聞こえないふりをしていたテレクラの女の子は、そちらにばかり気を取られて、自分の乳房が騎乗位のさなかにどのような表情を見せているかについては無頓着である、という印象を持ちました。
テレクラの、ちいさな乳房を持つ大いなる女の子とのセックスを通して、私の「乳房に対する認識」は、むしろ大きく広い領域のものとして拡張されたのではないでしょうか。