テレクラ女性と即ハメ夏LOVEロマンス

テレクラの女の子に即アポの交渉をしかけて、即ハメをする時間のなかで自分は毎秒ごとに苛烈な夏を生きているのだし、熱い即ハメの時間が過ぎ去り、女の子と別れるたびに、夏の終わりの夕暮れに味わう切なさを経験しているのではないだろうか。
即ハメして別れたばかりのテレクラの素人女子が下着姿になったとき、彼女のビキニの日焼け跡が自分の眼に飛び込んできた瞬間、自分に胸におとずれたわずかな切ない痛み、差し込みのような感情についてばかり回想している。
実際の季節が四季のいつであろうと関係なく、即ハメをすることになったテレクラの女の子と自分がいるベッドのうえだけは特権的に時空が切り離されていて、二人の性器を結合させながら過ごすあの輝きと躍動の時間、一夜限りのセックスは、いつだって真夏の体験なのだ。
テレクラの女の子とのセックスの渦中にあるのではなく、テレクラの女の子とのセックスの記憶を反芻するような一人の時間に関して、自分はいつも「冬」のなかにいる、と同じように言うこともできるだろう。
即ハメを終えてホテルから真夏の炎天下に放り出されたとしても、やがて去来するのは途方もない「冬」の感覚であり、あの熱狂的かつ特権的な「夏」はすでに過ぎ去ってしまって自分のもとにはない、という胸を締めつけるような寂寞である。
テレクラの即ハメの記憶は、テレクラの女の子のビキニの日焼け跡のように、精神の表皮に日焼けを残し、わずかに残存するあの夏の感触を、冬のなかに取り残されて冷気に耐えながら孤独に歩く私に伝えることになるだろう。
夏を決して終わらせてはいけない、過ぎ去った夏を取り戻さなければならない、あるいはいまだに経験したこともない夏と巡り合わなければならない。
“Summer never die! Endless summer!”
私のテレクラにおける即アポの交渉は、きっと、そんな情熱に支えられている。
テレクラで繋がった女の子を口説き落としてセックスをするすべての時間は、超短期型のバカンスであるのかもしれない。
私は、奴隷労働への従属を余儀なくされる日本人ではあるが、永遠に続くかと思われるうんざりするような「冬」の独房や強制労働のなかに、テレクラ素人女子とのセックスを通して「仏人がすごすバカンス」のすべてが凝縮されたような「時間」を、「夏」を垂直に突き刺して無理矢理にでも立ち上がらせる。
熱をたずさえながら濡れてどろどろに溶けつつある女性の膣の中にみずからの陰茎を突き刺す瞬間、脊髄を走り抜けるような快楽で、射精をこらえてわずかに表情を歪めるとき、私の眼差しは真夏のゆらめく陽光に焼かれて、眼を細めながら不可視の太陽をきびしく睨みつけている。